No.207
『トルクメニスタン旅行記 1 アシュカバード』
さて、皆さんお待ちかねかどうかわかりませんが、未知の国・トルクメニスタン旅行記です。トルクメニスタンと言えば、日本のテレビでは“ニヤゾフ大統領の個人崇拝型独裁国家”“中央アジアの北朝鮮”ってなことしか聞いたことありませんが、それはきっと北朝鮮にもトルクメニスタンにも行ったことのない人がインターネットかなんかの情報をオモシロく切り取って大げさにやってるにすぎないでしょう。この期におよんでテレビほど信憑性のない媒体はないと思ってしまっている私が、トルクメニスタンとは本当はいったいどんなとこなのか、と強く興味を持ちはじめて4年目、ついにトルクメニスタンをこの目で見ました。っつってもたったの6泊6日ですから、言ってみりゃパンチラみたいなもんです。しかし、たとえそれがパンチラであろうと、それを“見た”という事実。それもラッキーな風が吹けば見えるかもしんないシャナシャナしたミニスカートにおけるパンチラではなく、風が吹いたくらいではそう簡単には見えるわけない形状の着衣状態においてのパンチラだとすると、男性であれば誰もがその重要性を大きく評価することでしょう。何が言いたいのかわからなくなってきましたが間違ってないと思います。ってゆうかようはやっとトルクメニスタンに行けてうれしいなぁ、ってことなんですけど。そして私がこうしていろんなところに行けるのは、皆さんのおかげだということをもう19年前からよく理解しています。というわけで、トルクメニスタン旅行記、今週から3週にわたって出し惜しむことなく多くの写真ととも書こうと思います。感想を先に書いておきますと、イイとこでした、楽しかったです、また行きたいです。ではまず、トルクメニスタンの基本情報(日本外務省のHPから引用)を押さえておいて、今週は前半の2日間について書きます。
トルクメニスタン/面積:48.8平方km(日本の1.3倍)/人口:500万人/首都::アシュカバード(82.8万人)/民族構成:トルクメン人(85%)、ウズベク人(5%)、ロシア人(4%)、その他/公用語:トルクメン語、ロシア語/宗教:主にイスラム教スンニ派
4月10日(金)くもり
◆入国
9日(木)日航機でモスクワに入り、地下鉄乗ってなんとなく入ったレストランでストロガノフを食べて1泊。翌10日(金)モスクワ・ドモジェドヴォ空港から11:25発のトルクメニスタン航空で首都・アシュカバードに向います。機材は日本には飛んでない【BOEING-757】、ボディは白で緑色の垂直尾翼に鳩をモチーフにしたロゴマークがありました。満席のT5-702便はやや遅れて離陸。機内食はまぁ期待してないどおりのそんなもんで、基本的にイスラム教だからでしょうか、お酒類のサービスはありませんでした。3時間20分のフライトでアシュカバード【サパルムラト・トルクメンバシ記念空港】に到着したのは、16:00頃でした。飛行機を降りたらまずビザ取得の手続き。“VISA”と書かれた小さいボックスが2つあり、眉毛の濃いトルコっぽい顔の男性と、モンゴル系の顔の女性が無表情で座っています。そこにパスポートと招聘状を出して、ビザ取得料89USDを支払います。同じ飛行機で入国した外国人は私を含めて3〜4人。15分くらい待たされたでしょうか、パスポートにビザのシールが貼られ、滞在登録カードみたいなものとなんらかの券を受けとり、ついにトルクメニスタンに入国です。
Turkmenistan Airlines の BOEING 757 |
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入国関連書類 |
これまでおとずれた多くの空港では、パスポートコントロールを通過して荷物を受けとった後は、特に申告するものがない限りは緑色のゲートをほぼノーチェックで通れるんですが、アシュカバードはここで長い時間を要しました。ふたつのゲート前のフロアは複数の到着便の客でほぼぎゅうぎゅう詰め、どこがどの列かもわからない混沌としたなか、高度なテクニックの“横入り”も横行します。こういう状況って弱いんですよね、日本人って。いいんですけど。それに皆やたらと荷物が多い人ばかりで、その荷物をひとつひとつあけて中身をチェックしているので、なかなか進みません。結局ここで1時間以上かかってやっと外に出ました。はぁぁぁ、トルクメニスタンです。
◆新旧通貨移行時期
“Mr. KAN KIMURA”と書いた紙を持って待っていたのは英語ガイドのイゴルくん。白くてスマートなハンサムボーイです。運転手さんのショフラトさんとも握手をして車に乗りホテルへ向かいます。空港は街の北にあり、ほんの15分でホテル【Ak Altyn/アク・アルティン】に着きました。部屋に荷物を置いてひと休みして、19:00、夕食へ出かけます。まずは両替をしなければなりませんが、ホテルのフロントで両替はできず、もう銀行は閉まっている時間ということで、ショッピングセンターの両替所に向かいます。街の南にある【yimpas/インパシュ】はアシュカバードで最も大きなトルコ系のショッピングセンター。1階はスーパーマーケット、2階は衣料品や家庭用品、3階はボーリング場だそうです。両替所は1階にありました。街の両替所というとちょっと怪しい響きがありますが、ここトルクメニスタンは銀行も街の両替所もレートはほとんど変わらずみな普通に利用しているそうです。通貨単位は【manat/マナト】ですが、折しもトルクメニスタンは旧通貨から新通貨へ移行するデノミネーション引き下げ期間が終わったばかりだそうで、新旧の通貨が混在し、現地の人も支払いの度にいちいち計算しながらというような状態ですから、ここからの数日、私の脳内電卓もフル稼働です。旧通貨には紙幣・硬貨ともに初代大統領、サパルムラト・ニヤゾフさんの肖像画がのっていますが、個人崇拝的思考をやめる意味合いもあるのでしょうか、新通貨に現在の2代目大統領の画はなく、トルクメン人の歴史的英雄と思われる昔っぽい人の肖像画がデザインされています。デノミネーションのレートは、旧5000マナト=新1マナト。100USDを両替したら新通貨で284マナトでした。1USD=100JPYとして、=2.8新マナトってことは、1新マナト=37円くらいってことでしょうか。うぅぅ、めんどくさいので1新マナト=40円くらいで、それよりちょっと安いと思うことにしました。
◆高級アパート街
両替を済ませて店を出た時には日が暮れ始めていました。これからトルクメニスタンで初めての食事です。車に乗り向かったのは街の南にある新しい高級アパート街。いやぁぁぁ、まだ着いてほんの2時間だというのに、いきなり全く予想していなかった景色に唖然とします。広い通り沿いにずらーっと並ぶ10数階建てアパート群はどれも総大理石張り。それらがライトアップされて白く浮かび上がる様はアパートという響きとはほど遠く、どっちかっつうとヒルトンとシェラトンとリッツカールトンとウェスティンとインターコンチネンタルのリゾートホテルがずらっと並んで立ってるような、考えたことのない微妙な景観です。この高級アパート群、1階・2階にはショップやレストランがあり、その上が住居、歩道は充分に広く、まわりには広場や公園があります。すべての建物の外壁の大理石はスペインやイタリアから輸入し、国内で加工するそうです。家賃はいくらって言ってたっけなぁ、たしか米ドルにして800USD〜1500USD、街中にあるソ連時代の普通のアパートの3倍以上だとか言ってたような気がしますが記憶があやふやです。他にも高級アパート建設中の地区が複数あり、どれも基本的には政府関係の仕事に就く人たち向けのものだそうで、何年かかけての積み立て制度なんかもあるそうです。
◆レストランにて
さて、トルクメニスタンでの最初の食事は、そんな高級アパートの2階にある高級レストラン【Muscat/ムスカット】。ダークレッドのゴージャスな内装の店内に先客はなく私のみ。トルクメニスタンには一般的に外食習慣はなく、比較的高級なレストランの客は基本的に外国人とその関係者。また団体ツアーの場合は、このタイプのレストランを手配することはあまりない、ってことで先客がいないのはごく普通の状態だそうです。
イゴルくんがガイドになって3年間で、千人を超える日本人の案内をしたそうですが、10数人の年配の団体が、中国・カザフスタン・ウズベキスタンと旅するシルクロードツアーの通過点としてトルクメニスタンに3泊、というのがほとんどのケースだそうで、トルクメニスタンを第一目的地として単独でやってきた日本人を担当するのは初めてだそうです。なので、これまではイゴルくんが日本人の英語ガイドさんに説明し、そのガイドさんがお客さんに日本語で説明する、というのが通常で、もちろん英語を話すお客さんとは直接会話もしますが、今回の私のように、ひとりの客と直接話しながらの全行程というのは初めてってことです。そういう意味で言うと、私だってガイドさんと全行程というのはあまりありません。過去にガイドさんについてもらった旅行は、90年、初単独海外の北京の一部、94・95年のベトナム。それ以降は全くなく、去年1月のブータン旅行で、国の規定によりガイドさんと同行したのが13年ぶりでした。で、今回のトルクメニスタンも国の規定により全行程にガイドさんがつくのです。通常ガイドさんは客を店に案内した後、同席はせず別で食事をとるらしいんですが、「そりゃさびしいじゃないの」ってことで、当然私負担で一緒に食事をしてもらうことにしました。食事をしながらいろいろな話をするのは楽しくたいへん意味があります。
まず、トルクメニスタンの基本的なことをいろいろ聞きました。石油と天然ガス、そして綿花が主要産業のトルクメニスタン。ガス・水道などの公共料金は無料。電気・電話も一応月毎の基本料金がありますが、たいへんに安いのでみな年間一括で支払うようです。病院・薬もすべて無料。ここまでは事前の情報でなんとなく知ってましたが、おどろいたのはガソリンです。車1台あたり、月120リットルまで無料、それを越えた場合は有料ですが、それもいくらって言ってたっけなぁ、たしか1USDで10リットル買えるとか言ってたような、とにかくそのくらいの安価です。産油国だから当然なんでしょうか。
教育機関ももちろん無料。義務教育は10年間、小中の区分はなく、ひとつの学校で10年教育だそうです。トルクメン語を基本とする学校・ロシア語を基本とする学校・トルコ語を基本とする学校の3種類があり、トルクメン語の学校ではロシア語を、ロシア語の学校ではトルクメン語を、トルコ語の学校ではトルクメン語とロシア語を多くの時間学ぶそうです。なので公用語はあくまでトルクメン語ですが、都市部ではロシア語も話されていて、特に首都・アシュカバードではロシア語率が高いそうです。例えば、ガイドのイゴルくんはトルクメン生まれのロシア人で、運転手のショフラトさんはトルクメン人ですが、この2人はロシア語で会話し、このレストランの従業員さんとのやりとりはすべてロシア語だそうです。じゃぁ例えば、私が誰かに「ありがとう」と言う場合は、ロシア語で「スパシーバ」か、トルクメン語で「サグボルン」、どちらが適当かとたずねると、どちらでもお好きなほうで、ってことだったので、できるだけ両方言うようにします。
食べた料理は、メニューに載ってないオススメってことで、串に刺して薪で焼いた牛肉を玉ねぎやピーマンと炒め煮にした豆豉風味の料理。じゃがいものホイル焼きとともに分厚い鉄皿で出てきました。中央アジアのスタイルってことでしたが、かなり中華的ニュアンスが強くおいしかったです。ワインはトルクメニスタン産を飲みたかったんですが、この店にはなく、モルドバの赤ワインを飲みました。料金はたしか2人で89新マナト=3300円くらいだったと思います。21:00、ホテルに戻り、イゴルくんはお疲れさまでした。視察のためにひとりホテル内のバーでワインを1杯飲み、寝ました。
4月11日(土)雨
◆トルクメンバシィ・ルーヒー・メトジティ
この日は1日観光。当初、まずアシュカバードの南西18kmにある【ニッサ遺跡】を見学する予定でしたが、雨の中の屋外遺跡見学はキツイでしょうというイゴルくんの判断で、【ニッサ遺跡】はたぶん晴れるであろう15日に変更して、市の西のはずれにあるイスラムモスクを観に行くことにしました。ホテルから車で15分、広大な緑の公園にある巨大な金のドームのイスラムモスクに着きました。たしか2004年か5年に建てられたモスクの名は、【TURKMENBASY RUHY METJITI】、訳すならば「トルクメンの父の精神のモスク」ってことだそうです。「トルクメンバシ」とは初代大統領・ニヤゾフ氏の呼称。日本では「ニヤゾフ大統領」と呼んでいますが、現地では「トルクメンバシ=トルクメンの父」と呼ぶそうです。トルコ・イスタンブールの【ブルー・モスク】に次いで、中央アジアでは最大のモスク。4本の光塔の高さは91m。これはトルクメニスタンが独立した1991年にちなんでの高さだそうです。靴を脱いで中に入ると、世界最大の8角形(だったっけか)のジュータンがひいてありました。そんなジュータンの上にあぐらをかいて「他のどのイスラムモスクにもない独自のことがありますが、なにかわかりますか?」と問われましたが、イスラムモスクは【ブルー・モスク】しか見たことのない私にはわかりません。アテズッポで「シャンデリア!」と言ってみましたが当たるはずもなく、正解は、どのイスラムモスクも壁にはアラビア語のコーランの一節がかかれていますが、ここは、初代大統領執筆のトルクメン人の精神を説いた本【ルフナマ】の一節がトルクメン語で書かれていることだそうです。うぅむ、たしかに。モスクの名前といい、それといい、やはりニヤゾフさんの個人崇拝時代がうかがえます。この日は土曜日で祈りに来ている人はなく、2人の女性が巨大ジュータンに黙々と掃除機をかけているだけでしたが、金曜日には多くのイスラム信者がやってくるそうです。
本堂(と呼んでいいのかわかりませんが)に隣接してニヤゾフ家の廟(墓)がありました。いずれも内部の撮影は禁止されています。中に入ると上から見下ろすかたちで5つの墓石があります。ニヤゾフさんの父は第2次大戦中の1943年に戦死。母と兄と弟は1948年の大地震で亡くなり、つまりサパルムラット・ニヤゾフ初代大統領は幼いころ孤児になってしまったのです。孤児院に入り、ロシアに渡って学び、トルクメニスタン独立時に初代大統領になりました。
トルクメンバシ・ルーヒー・メトジティ |
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ニヤゾフ家の廟 |
そう、1948年の大地震は首都・アシュカバードの中心が震源地で、街は壊滅し、市民の3分の1が亡くなったそうです。ですからアシュカバードの建物は、最も古いものでも1948年の大地震以降に建てられたってことです。
◆独立広場と中立の門
街に戻り、今度は市の中心部に位置する【独立広場】と【中立の門】を見学。外壁は白い大理石で中央に大きな黄金のドームがある大統領府(改装中)の前に長方形の【独立広場】があり、通りを挟んだ南側に【ルヒエット宮】という会議場があります。この前日、CIS諸国の首脳会議がありました。広場の北側の交差点には【中立の門】が象徴的にそびえ立ちます。トルクメニスタンはいかなる同盟・連合にも所属しない“永世中立国”として1995年、国連に承認されました。それを記念して建てられた3本足の【中立の門】の先端には金メッキのサパルムラット・トルクメンバシ(ニヤゾフ大統領)の像が立ち、この像が太陽の動きに合わせて24時間で1周し、夜は七色に変化する照明でライトアップされます。3本足のひとつに斜めに昇降するエレベーターがあり、これで上に上がるとアシュカバードの景色を360°眺めることができます。
左上の写真が独立広場と中立の門/右上は中立の門から見た南東側の景色。手前の牛の上に地球がのっているのが「1948年の震災犠牲者の慰霊碑」で、公園の先にある茶色の柱は「第2次大戦犠牲者の慰霊碑」/左下は中立の門から見た北側の景色。小さくて見えにくいと思いますが、写真内左の薄茶色の建物が後半に宿泊する「Hotel Grand Turkmen」。その奥の競技場の左にこの日泊まっている「Hotel Ak Altyn」があります。写真右手の平たく大きな屋根が「ルスキー・バザール」。手前の白いのはなんだったっけなぁ。/右下は中立の門から見た南西側の景色。水色のドームの建物が会議場。奥のほうに新しい高級アパート街が複数見えます。
◆中央アジアのラーメン“ラグマン”
昼食は何が食べたいですかと聞かれたので、まずは麺系でしょうと「Noodle in Soup Turkmen Style」と言ってみたら、「わかりました」ってことで『Altyn Dan/アルティン・ダン』というレストランにやってきました。まず頼んだのは「ロシア式サラダ」。じゃがいも・ニンジン・ゆで卵・きゅうり・ケッパー・パセリがなんらかのオイルで和えてあります。通常はマヨネーズで和えるらしいんですが、抜きにしてもらいました。トルクメン特有ではないものの中央アジアで広く食べられている麺料理“ラグマン”は、牛肉とニンジン・じゃがいも・玉ねぎなどの野菜を煮込んだブイヨンの中にソフト麺っぽいのが入ったもので、ニュアンス的にはミネストローネ麺って感じでしょうか。ロシア式サラダと具材がほぼかぶってしまいました。
中央アジアのスープ麺“ラグマン” |
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レストラン『Altyn Dan』の店内 |
◆トルコ式モスクと国立歴史博物館
朝から降るか降らないかだった雨がついに降り出しましたが、さらに観光は続きます。街の東にあるのはトルコから贈られた【Ertogrul Mosque/エルトグルル・モスク】。中に入るとひとりの若い男性が近寄ってきて、ガイドのイゴルくんと私に握手をして何か話しています。イゴルくんに聞くと「なにかお手伝いできることはありますか」と聞いてきたので「いいえ、ただの観光です、ありがとう」と答えたそうです。さらっと見学した後は、市の南にある【国立歴史博物館】にやってきました。博物館には専門の案内人がいて、ガイドのイゴルくんは同行せず入口で待ちます。トルクメニスタンの歴史に関する展示品をひとつひとつ女性案内人に説明を受けますが、固有名詞や専門的用語らしき単語が多く、半分くらいしか理解できませんでしたが、歴史にチョー疎い私でも結構おもしろかったです。でも歴史的価値がたいへんに高いとされるものは、サンクト・ペテルブルグの【エルミタージュ美術館】に行っちゃうみたいですね。
◆ソ連式アパート
ジュータン博物館ってのもありますが、雨も強くなって来たし、今日の観光はもうこれで充分ってことでホテルに戻って休憩します。国立歴史博物館がある市の南部は新しい高級アパートやピルが建ち並び、どれも外壁は総大理石張りです。街中に戻ってくると無表情なソ連時代のアパートが多く建っています。ソ連時代に建てられたもの他に、ソ連時代のスタイルで新たに建てられるアパートもあるようです。外観はかなり無愛想ですが、住むには機能的にいいんでしょうか。それにしてもパラボラアンテナの数にはビックリしました。ほとんどの世帯の窓に独自にパラボラアンテナが設置されています。窓ごと隠れてしまうほどの大きなものもあれば、大小2つってところもありました。受信しにくい側の世帯は屋上にアンテナを設置するそうです。アパートをひとまとめで大きなアンテナというわけにはいかないようです。聞くと、トルクメニスタンの国営放送局は4チャンネルあり、うち2つが地上波で、2つは衛星放送。なので、みな合法的にパラボラアンテナを付けて、おのずと外国の放送も受信できるわけで、米CNNも英BBCも普通に見てるそうです。スクランブルを解除するイリーガル・コンバーターも適度に出回っているようです。
上段左は白亜の高級アパート街/上中は薬関係の省の建物。薬の起源ってことでコブラをかたどったデザインです。/上左は高級アパート街のショッピングセンター。/下段の2点はパラボラだらけのソ連式アパート。
◆ホテル・アク・アルティン
【Hotel Ak Altyn】はアシュカバードで2番手クラスのホテルで冷蔵庫はありませんがバスタブはあり、ひとりで泊まるには充分な広さです。窓から改装中のサーカスドームが、天気のせいか妙に淋しげに見えました。「Ak」とは「白い」という意味で「Altyn」は「金」、つまり「白い金」ってことなんですが、それが何を意味するかと言うと、トルクメニスタンの主要産業のひとつである「石油」のことを「黒い金」と呼び、それに対して同じく重要な産業である「綿花/コットン」のことを「白い金」と呼ぶそうです。昼間のレストランの店名もそうでしたが、「Altyn=金」という単語はこのあとトルクメニスタンのいろんなところで目にします。いい響きなんでしょうね。宿泊代はすべて事前に払い込んでいます。トルクメニスタンにはクレジットカードは普及してないようで、電話や飲み物など、その他の支払いに関してはチェックアウト時にマナトかUSドルで精算します。
◆移動式住居“ユルタ”のイメージ
夕食は市の南東部の大きな公園の中にある、円錐形6階建てが丸ごと滝になっているすげえ建物【Altya Asyr/アルトゥヤ・アシル】の5階にあるレストラン『Minara』。円形フロアの全テーブルから夜景が見えます。トルクメンニスタンの古い移動式住居“ユルタ”をイメージした個室もあるってことで、そこにしました。竹と鞣し革と乾燥した植物とジュータンと、そのようなものを使って建てられる移動式住居“ユルタ”。“パオ”って言うとなんとなくイメージがわきますでしょうか。そんな感じのアレをイメージした個室です。小さい入口を必ず右足から入ると、右側が男性・左側が女性・奥は客人、それぞれの常識的位置が決まっているようです。靴を脱いであぐらをかいて、骨付き鶏肉のトマト煮込みとトルクメニスタンのワインを飲みました。が、デザートワインのように甘かったので、2杯目からグルジアのワインに切り替えました。
ビルがまるごと滝 |
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イメージ“ユルタ”でトルクメン・ワイン |
明日は朝早いってことでとさらっと切り上げてホテルに帰り、でも今夜もBarでシメのワインを一杯飲んで寝ました。明日は早朝6時の国内線に乗って、トルクメニスタン第2の都市・マーリに向かいます。
というわけで、たいへん長くなりましたが今週はここまで。どうでしょう、少しは興味が湧いてきた方もいらっしゃるでしょうか。来週はトルクメニスタン観光を代表する遺跡を2カ所。マーリからアシュカバードに車で戻る道中なんかの話を写真とともにお伝えします。
『EARTH LIVE in MIYAZAKI』終了しました。観に来ていただいた皆さま、ありがとうございました。
2009/05/01
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