No.150
『Thriller 25』
あれからもう25年ですかぁ。
1983年、振り返れば私にとってすごくイイ時代だったのではないかと思えます。もうすっかり都会人になりきっている東京生活3年目、可愛い彼女はいましたがまだ外国は知らず、とりあえずプロのミュージシャンを目指す20歳の青年でした。
プロのミュージシャンを目指すっつったって、たいそうなことではありません。なにしろそれまでの人生、ピアノもギターもベースも弾けて家にはドラムもあるし作曲までしてしまう70年代後半の福岡の高校生だった私が他の誰よりも特別に優れた音楽的才能の持ち主であることは自他ともに認める事実でしたから、プロのミュージシャンになるなんてのはいわゆる“夢”というようなものではなく、普通に当然なれるもんだと思っていたわけで、バンドもあくまでプロになるための“課程”みたいな気持ちでやみくもにやってました。そんなジャスト・ア・フロッグ・イン・ザ・ウェルだった私が生まれて初めて音楽的な挫折感を味わい、「人生ってきっときびしい」と感じ始めたのが1983年でした。
高校時代の水泳部の先輩・武田さんが青山学院でやっていたバンド『ANNETTE』に誘われて入り、ヤマハのアマチュアコンテスト“イーストウェスト”に応募して、テープ審査を当然のイメージで通過したまではよかったものの、吉祥寺のヤマハの小さいホールみたいなところでの地区予選で、初めて東京の同世代のバンドの演奏を複数聴き、そのレベルの高さに驚愕し、「あぁぁ、オレってうまいわけでもすごいわけでもなんでもないんだ」と落胆したものでした。そんな感じで吉祥寺地区予選であっさり敗退したのが83年、“人生初挫折”です。ちなみに“人生初ガス欠”は去年07年暮れです。えぇ、なんの関係ありませんが、響きが似てたもんですから一応。
夜は六本木のディスコ『玉椿』でアルバイト。最新の洋楽を連日6時間から8時間大音量で聴き続ける環境は、後の音楽製作、とりわけアレンジメントにたいへん大きな影響を与えていることはいろんなところで書いたり話したりしてます。でもってこの時期本来なにかというと、私は学生、法政大学社会学部社会学科、1度目の3年生です。大学入って“東京に来た”ってことですっかり一段落していた1・2年時はほとんど学校に行くことはなく、ピアノを買うたに昼夜ダブルでバイトしてたもんですから、そのシワヨセがこの83年にきます。この3学年時になんと64単位をとらなければ留年する、ということにやっと気づき、そりゃたいへんだってことでひたすら学校に行って登録したすべての授業にとにかく出席した私は2つの幸運にめぐまれました。
ひとつは、当時の法政大学・市ヶ谷の本校には“学生運動”の最後の火がまだ残っていたもんですから、学期末試験の時期になるとその活動者により、大学は周囲を鉄板で覆われ、先生方や職員のみなさんは学校に入れてもらえないという、つまり活動的学生が校舎を占拠する状態になります。これを“ロックアウト”と呼んでました。カッコイイ響きですね。そんな“ロックアウト”のおかげで試験は実施されず、学外の鉄板に各授業のレポートのテーマが貼り出され、そのレポートを出しさえすれば単位取得、という勉強しない学生にとってはなんとも都合のいい状態が入学年を除く在学中ずっと続きました。もうひとつの幸運は、大学で3〜4人しかいなかった友人のひとり、後に『TOKYOMAN』の歌い出しの歌詞にもなる鈴木健之くんの存在。鈴木くんはマジに社会学をやるために選んで法政の社学に来た人だったもんですから、学部内の教授による著作本はひととおり持ってたりするわけで、先生の名前とレポートのテーマを鈴木くんに告げれば、「それはこの本のこのあたりかな」と本を出してくれて、私はそれをセブンイレブンでコピーした後、自筆でほぼ丸写しにして提出すればOK。このパターンでほとんどの科目をクリアし、鈴木くんへの謝礼は3000円分のビール券みたいな、テキトーラクショー路線でなんとかうまいこと留年をまぬかれるストーリーだったんですが、世の中そんなに甘かぁないんですね。『英語』は自力でなんとかしたものの、ふと気がつきゃ雰囲気だけでとっていた『フランス語』ってのがありまして、こればっかりは鈴木くんも「かんちゃんごめん、フランス語はぼくとってないし、どうにも協力できないなぁ」ってことで、もちろん私が自力でどうできるわけでもありませんで、このフランス語ひとつだけを落として2単位不足で留年が決定しました。いやいやなんとも、いい話ですね。
そんな私がその19年後にはフランス・パリに移住して、2年半も暮らしたにもかかわらず、帰ってきて4年もすりゃフランス語なんちゃアトカタもなくフォゲットしちゃって、ついこないだなんてパリのピアノの先生からいきなり電話がかかってきたけど、何言ってんのかさっぱりわかりませんでした、ってことですから、こりゃもう“いい話”を越えてすっかり“美談”、へたすりゃ“武勇伝”です。この爽やかさはなんでしょうか。
話戻して1983年。ファッション的には私の人生でとても短い“アイビー”ではない時代です。82年は原宿のキディランドの横の路地を入ったつきあたりのパブ(当時はまだカフェバーという語が存在しませんでした)でアルバイトしてたこもとあって、ラ・フォーレ原宿の店員さん(当時はまだハウスマヌカンという語も存在しませんでした)なんかに知り合いが多く、“MELROSE”やら“MEN’S BIGI”やらそのあたりの服を一生懸命買って着てたりしたものでした。そんな流れのまま83年もそのテのファッションで六本木のディスコにアルバイトに行ってました。ちなみに当時の女性ファッションは“Y’s”“Comme Des Garçons”“Comme Ça De Mode”などが主流で、とにかくみんな全身真っ黒な服着てましたね、カラスですよ、カラス。しかも髪を刈り上げる女子が多く、あれはホントにイヤでね、「なんだよそれ、髪伸ばせ、髪ぃ」といつも思ってました。で、その逆極にあったのが“PINK HOUSE”ですね。あのファッション自体は非常に女性らしく、着る人が着ればたいへんにエレガントでよろしかったんですが、いかんせんどうにも“PINK HOUSE”着てる人ってオーヴァー・ポッチャリなタイプばっかだったんですよね。陸サーファーの生き残り風レイヤードカットのギャルが必要以上に魅力的に見えたものでした。
ね、なんか楽しそうな時代でしょう。
そんなファンタスティックな前開き、ではなくノスタルジックな前置きがめちゃくちゃ長くなってだいたい何書こうとしてたんだったか忘れるところでしたが、思い出しましたので、やっと本題です。要は、Michael Jacksonさんの『Thriller 〜25周年記念リミテッド・エディション〜』が発売されて、聴いてみたらこれがエラく楽しいぞ、ということを書きたいのです。
このアルバム、まずはもともとの9曲がそのまんまあり、そのあとに Vincent Priceの未発表ナレーションがあり、そしてこの後がたいへんなんですが、“will.i.am”“Akon”“Fergie”“Kanye West”など昨今のヒップホップ系トップアーティストによるリミックス/リメイクナンバーが5曲。それでもって当時録音されるもアルバムに収録されなかった未発表曲2曲。それもデモや途中の段階ではなく完成形の音源、という素晴らしい内容。しかもディスク2は、当時はビックラコキコキの最先端だったんですが今となっては昔なつかしい「Thriller」「Beat It 」「Billy Jean」のPV映像プラス、アポロシアター25周年記念イベントでの伝説の初ムーンウォーク映像、という超豪華な内容です。
なんつたって楽しいのは未発表曲ですね。「For All Time」は前半のメロディの感じから「Human Nature」の原型曲ではないかと思われます。録ったは録ったんだけど「なんかイマイチだよねぇ」となり、作り直したのが「Human Nature」ではないかと推測します。こういう未発表曲、ファンにとってはめちゃくちゃ嬉しいですね。日本盤のみもう1曲未発表の「Got The Hots」ってやつも入ってますが、これがまたねぇ、ボツになった感じがなんとなくわかる嬉しい作品です。人のボツ作品って聴いててなんかホットしますね、私だけでしょうか。
この『Thriller』を私のようにリアルタイムで聴いていた皆さんは当時を懐かしんだり、最新アーティストによるリミックス/リメイク音源にちょっとちょっと引け目を感じたりと楽しいですよ。また、「83年なんてまだ生まれてないも〜ん」なんつってるお嬢さん方には、マイケル・ジャクソンと言えば“整形”とか“幼児虐待”とかっていうイメージばかりが先行していることでしょう。そんな皆さんにこそ聴いていただき、マイケル・ジャクソンというアーティストのとんでもない凄さを実感していただきたいですね。なんつたってこの『Thriller』、全世界で1億4000万枚売れたっつうんですからタイトルどおりのオバケアルバムです。で、解説をよく読んでみたら発売は82年の11月30日でした。なんだよ、82年かよ。いいや、もう遅い。
そんなこともありながら、アルバムジャケットに25年前の私の顔をハメてみたりしようかと思って写真をあさってみましたが、ピタッと来る表情のヤツがみつかんなかったんでやめましたが、なんかねぇかなぁと探していたら、マイケル・ジャクソンさんのオフィシャルサイトで、自身の写真をアップロードして『スリラー』のビデオに顔をハメ込むというかなり楽しそうな企画をみつけてしまいました。是非やってみてください、ヒ〜ッヒ〜!
2008/03/28
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