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History of KAN

ANNETTE

ANNETTE
「CANRIO on New York Band」の解散ライブを観にきてくれた高校の水泳部の先輩・武田光太郎さんに誘われ、青山学院理工学部のフュージョン系バンド「ANNETTE」に“私のオリジナル曲を演奏する” ことを条件に加入。先輩・武田光太郎(D)、竹田弘樹(B)、大村裕司(G)、田口浩美 (K)と貸しスタジオに入り、リズムパターンやベースライン、ギターの音色やカッティング、シンセの音色、フレーズ、エフェクトなどを一曲一曲何日もかけて、ああでもないこうでもないと練りあげるというやり方に最初は戸惑ったものの、やがてそれまではアレンジなど考えたこともなかった自分に気づく。イギリス発のニューロマンティクスムーブメント全盛のこの時代、夜は当時六本木で最先端のディスコ「玉椿」でアルバイト。最新のヒットチューンを連日6時間から8時間、それも大音量で聴き続ける環境、それはこれまで気に止めることのなかったアレンジメントのアイディアの宝庫でもあった。バンド「ANNETTE」でのスタジオ作業の繰り返しと、ディスコ「玉椿」での経験が、私の編曲・アレンジメントの原点、基盤になっていることは明らかだ。84年からはコンテストに積極的に挑戦。ヤマハ「East West ’84」決戦大会では優秀賞、集英社ヤングジャンプ「Sound Contest ’84」ではヤングジャンプ奨励賞と2番手、3番手の賞ばかりを受賞した。このあたりから徐々にレコードメーカー関係者にデモテープが聴かれるようになり、そんな中、ポリドールレコードの平野治氏と出会う。またポリドールの協力を得て「新宿ルイード」で単独ライブを行う等、大学は1年留年したもののなんとか卒業し、デビューへの道が開けてくる。

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